本 堀江敏幸『雪沼とその周辺』

連作短編となっていて、雪沼という(おそらく山間の)小さな町に暮らす人々のエピソードが各短篇のあいだで緩やかにつながっているというもの。まずなんといってもタイトルがいい。まさに雪沼の周辺に暮らす人々のストーリー。

読み進めるごとにじわじわといい。いろんなところでいろんな人が毎日を生きている。静かな町の静かな時間の中で、毎日汗を流したり、不安になったり、ぼんやりしたり、笑ったりしながら生きている人たち。

文体は三人称で語られるのだが、人物を〇〇さんという語り口が新鮮で、いわゆる「神の視点」ではなく、町内の、近所の知り合いについて語っているような印象を受ける。

とにかく人物造形と描写が秀逸。でも「リアリティがある」というのとはなんだかちょっと違うような気がする。どこかにいそうな誰かたちなのだが、どことなく寓話的というか現実からほんの少しだけ遊離しているような感覚がふと立ち込めてくる。

大好きな片岡義男と、人物描写についてはある意味で対極にあるなあと思っていたら、実は堀江は古くからの片岡義男愛読者であることを知ってびっくり。

片岡義男×堀江敏幸×川﨑大助 ~作家デビュー40周年記念~「片岡義男と週末の午後を」vol.2「堀江敏幸が探る、片岡義男の頭のなか」『ミッキーは谷中で六時三十分』刊行記念

自分が好きなものが知らないところでつながっていたことを知るのは望外の喜び。

ストーリーを語るための人物ではなくて、人物を語るためのストーリー。他人の人生を垣間見(覗き見?)するような感じもして、なんといっても静かな語り口がしっくりとくる。「ささやかな」という言葉がぴたりとくる物語。こういう作品を読むと「短篇とはなんとおもしろいものなのだろう」とあらためて感じ入ることしきりなのである。

アニメ 『銀河鉄道999』映画版の鉄郎の年齢について思うこと

こんな記事があったのでほうほうと読んでみた。

『銀河鉄道999』鉄郎の顔はなぜTVと映画で「別人」に? 背景には納得の理由があった

うーん、ちょっと違う気がするなあ。
テレビのメーテルは母のイメージがあまりにも強かったのに対して、映画のメーテルは少年が憧れる年上の女性として描かれていると思う。

その鉄郎にとってメーテルはまさに初恋?の対象として存在し、だからこそメーテルとの旅を通して少年は大人になる、その象徴としての別れのキスだったわけで、あれがテレビ版鉄郎では母が子に対して示す愛情としてのキスになってしまうからではないかとずっと思っている。

(細かいところはうろ覚えだが)映画のなかでメーテルは自分を鉄郎の青春の中にだけ存在する幻影、と言っていた。この「青春」というのが映画版の大きなテーマであり、テレビ版鉄郎では、まだ青春というには幼すぎるのではないか。

この青春のなかの幻影というのはたしかそれまでの原作マンガでもテレビ版でも出てきたことはなく、映画版で初めて語られたのではなかったか。映画にするにあたり、それまでとは明確に違うテーマ設定がされたのではないか。

事実、原作マンガ最終回でのキスは小さめの一コマでポンと描かれただけで、映画版のような重要な扱いではなかった(テレビ版でもキスシーンあったっけ?)。

個人的には映画版のラストシーンは、テレビ版ではなく映画版の鉄郎だったからこそ、戻ることのない青春のある時期との永遠の別れと重なり、力の限り叫びながら追いかけた999ともども空の彼方へ走り去ってしまうメーテルとの別れがあれほどまでに切ないものになったのだと思う。

あの人の眼がうなずいていたよ
別れも愛のひとつだと
(ゴダイゴ「銀河鉄道999」)

鉄郎とメーテルの関係は
TV版)子ども期を多分に残す少年の、母性的なるものへの思慕
映画版)大人へと踏み出し始めた少年の、年上女性への恋愛感情
という大きな違いがある。

だからこそ惑星メーテルに着いた鉄郎が「バッキャロー!」とメーテルの頬を叩くシーンが痛ましいほどに心に響くのだ。TV版鉄郎だったらメーテルを叩くことはできなかっただろう(母親を叩くことになってしまうので)。ここでの鉄郎は少年とはいえ、男と女としてメーテルと対峙している。

映画製作が決まった時の999は原作マンガもTV版も「謎の美女と宇宙を走るSLで冒険の旅を続ける少年のSF物語」だった。でも映画にするからにはラストシーンを描かなければいけない。物語を終わらせなければいけない。そのためには終わらせるテーマがなければいけない。

鉄郎とメーテルの旅は終りを迎えなければいけない。いつまでも旅を続けるわけにはいかない。それは鉄郎にとってひとつの大きな意味を持たなければいけない。それは少年が成長していく過程での重要な通過儀礼でなければいけない(ちょっと無理やり感があるが)。

旅の終わりを迎えるにあたり、象徴的なシーンが必要だ。それがメーテルとのキス、そして別離だ。空の彼方へと走り去っていく、青春の象徴としての999だ。

きっとそれを考えた末でのキャラクター変更だったのだろう。当時(あれ、年齢上がってるぞ!?)と思ったが、今にして思うと2時間映画として成立させるためにいろいろな試行錯誤がなされたのではないかと思う。そしてあんなに素晴らしいラストシーンで僕らの胸と涙腺を熱くする映画になったのだ。

マンガ 外園昌也『ラグナ通信』

★★★★★

今ではキッチュなホラーマンガ家として大成している作者からは想像もつかないような(笑)初期の傑作。

ジャンルとしてはファンタジーになるのかな。ラグナという世界で暮らす誠一郎とキノコ人間のナサニエルたちによる短篇と、ラグナ世界ではないSF短篇が収められています。

異世界のファンタジーというとますむらひろし『アタゴオル』シリーズが有名で僕も大好きですが、あそこまでファンタジーっぽくはないというか(むずかしいな)、舞台としてはヨーロッパの森や田園風景に近い感じ。その風景描写がなんともよく、草原、雲、雨など素朴なペンタッチながらあたたかみのある絵柄が素敵。

作者が本の中で述べていますが、ソ連の映画監督アンドレイ・タルコフスキーの影響が色濃く、水や雨が醸し出す雰囲気はその手のものが好きな人にはたまらないでしょう。

どのエピソードもファンタスティックでハートウォーミングな佳作が並び、キャラクターたちも魅力的ですが、やはりなんといっても自然の風景や月や星空、それらを効果的に配した大ゴマや見開きページの構図の妙などに強烈に惹かれました。高校生の時に初めて読んでからもうぞっこんになり、大学生の頃はこのラグナ的世界と、イナガキタルホ/あがた森魚的世界のどちらかのなかで一日中夢想しているというような日々を送っていました。

今読み返してもコマのすみずみまでじっくりと眺めては、広々とした草原、空に浮かぶ雲、雨雲から降りしきる細かな雨など、なんとも言えない情景にため息が出てきます。モンゴルのどこまでも続く草原に立った時、ふと(そうか、こういうところに来てみたかったのはラグナの影響もあったんだな)と思ったものです。

ストーリーと絵、その両方が心を想像の世界へとふわりと誘い、このラグナの住人として暮らせたらどんなに幸せだろう、と思わせる。そんな世界がこの本の中にはあります。

マンガ 芦奈野ひとし『ヨコハマ買い出し紀行』

★★★★★

地球規模での大自然災害(?)により海面が上昇し海辺の街は水没、人口も大幅に減り人類はその終焉に向かっている世界で、三浦半島の突端でお客がさっぱり来ないカフェを営むアルファという女性ロボットが主人公の物語。

何度読んでも尽きない感動があるのですが、とくに僕の好みにピタッと来た点がふたつ。

ひとつめは自然描写がとても美しいということ。
夏の入道雲、秋の夕焼け空、夕立と雷、台風、雪、夏のうだるような暑さなど、カラーページはもちろんのこと、モノクロページでも繊細かつ美しい線によって、空気の匂いや湿度をも感じさせるような情景描写に惚れ惚れとします。

ふたつめは「時間の流れ」をきちんと描いているところ。
物語の前半はアルファと近所の人たちや同じロボット友達とのあいだに起きるちょっとした日々のエピソードがのんびりまったりほのぼのと描かれていきます。人類がゆるやかに終末を迎えようとしていても、日々は変わらずてろてろと過ぎていきます。

それが物語の後半に差し掛かるあたりから、実は「時間」が大きなテーマであることがだんだんと分かってきます。時間が流れることにより、子どもたちは成長し、老人たちは死んでいく、そうした長い間の変化に対して、歳を取らないアルファ。なぜ主人公の女性がロボットでなければならないかという作品の大きなテーマが、ここで重要な意味を持ってくるのです。

もともと、ロボットや人工知能といった機械と人間とのあいだでかわされる交流や信頼や愛情や葛藤といった心の動きを描いているSFが大好きだったこともあり、ふわふわとした穏やかな日々の積み重ねを描くいわゆる「日常系」と見せながら、実はとてもSF的な命題をロボットであるアルファ側の視点で描いているというところが自分のツボにマリアナ海溝よりも深く刺さり、いたく感動したというわけです。

同じように人類の終焉を描くマンガとしては田中ユタカ『愛人 [AI-REN]』、つくみず『少女終末旅行』もそれぞれまた違ったベクトルで感動しましたが、やっぱりこの作品の素晴らしさは別格。いつまでも手元に置いておき、ふとした時にパラパラと読み返し、そのまま止められず最後まで読んでしまう、僕にとってはそういうマンガです。

まあ、読むとあまりの雰囲気の良さに心奪われ、働きたくなくなっちゃうんですけど(笑)。

アニメ 『ピンポン』敗者のための物語

★★★★☆

5話まで
原作マンガもすごいがアニメもなかなか良い。なにより当時はまったくのマイナースポーツだった卓球をテーマにこれだけの作品を描いた松本大洋に感服。

6、7話
ちょっとスポ根要素入ってきた。ペコ、スマイル、ドラゴン、チャイナ、それぞれがバラバラに自己鍛錬に挑む。スマイルは小泉を受け入れ、彼の特訓に励む。バタフライジョーか、映画のCMで印象的だった蝶の羽のシーンは彼のことなのか。アクマがペコに卓球続けろ、お前の才能に嫉妬していたというところはちょっといい。スポ根ぽくもある。

8、9話
泣ける・゚・(ノД`;)・゚・「おかえり、ヒーロー」、「スマイルが待ってんかんよ」

9、10話
いいわー、泣ける。「スマイルが呼んでんかんよ」。ドラゴンとの試合がクライマックスなのか? このあとペコとスマイルの決勝戦だが、どうなるんだっけ? そこをあっさりと描いたらそれはそれでかっこいいけど、さすがにそうはいかないか。

画面の右から左へコマを割りつつ進行していく見せ方は、マンガ的であるけどアニメとしては新しかったか? でもそれは原作でのコマ割りがあったからこその表現なのでは? でもこのアニメの表現は原作に負うところが大きいにせよ、当時としてはかなり新しかったのではないか。これ、やっぱり原作読み返したいなー!

最終話
よかった、感動した。スマイルはオババの卓球場のコーチ、先生になる。ドラゴンは代表を外されてしまい、自分は結局凡庸な選手なのではないかとつぶやく。スマイルは「いいじゃないですか、凡庸」。ドラゴンの彼女が海外に行って成功?したようなカットがあったが、ドラゴンとの対比なのか? もう一度見直してみよう。

これはまぎれもなく敗者の物語だ。

(20200413)