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2013/02/27 / Rocketman3

photoblog_026 その塔が倒れるとき

 

衛星軌道までそびえるその塔は、僕が生まれる前から当たり前のようにそこにあった。

だからそれが倒れてくるなんて夢にも思わなかった。

あまりにも巨大なんでまるでスローモーションのよう。

天が降ってくる。

ああ、あと数十秒で僕の街が消える。

パタンと本を閉じるみたいに。

 

 

 

2013/02/26 / Rocketman3

photoblog_025 街を見下ろす漆黒の王

都心にこの冬二度目の雪が降った朝。人々は誰もが下を向き、凍った路面に足を捕られないよう歩いていた。

 

灰色に鈍く光る空を背景にそいつは高い塔の上から街を見下ろしていた。突然の天候にあたふたする人間を見下ろす姿はまさに「睥睨する」という言葉がこれ以上ないほど似合っていた。

 

いつでも空を飛び、都会の裏の隅々までに目を配り、日々を生きているやつの眼に、たかだか雪ぐらいであわてている人間たちはどのように映っているのだろう。

 

今この瞬間、街の王はやつなのだ。やつこそがこの世界から自由に振る舞い、街をその漆黒の羽根の下に従えているのだ。やがてやつは甲高くひと鳴きして、街にその威厳を響かせるだろう。

 

 

……カラスは声を上げることもなく首をぐるりと一度めぐらせると、めんどくさそうに羽根を広げ僕のつまらない妄想をはたき落とし、灰色の空の向こうへと飛んで行った。

 

 

 

2013/02/21 / Rocketman3

photoblog_024 幻のように思えた光景

 

(mixi日記 お蔵だし 2006年09月17日01:46)

 

マイミクphoto-voxの日記を読んでいてふと思い出した。

僕もカメラを持ってあちこちをふらふらするのが好きだが、同じように横浜のちょっと外れを散策したことがある。

そのときはphoto-voxに貸してもらったKonica-3というハーフサイズで撮影できるカメラを持って、京急の黄金町あたりをうろついていた。このときに強烈な印象を残したのが以下のふたつ。

まずは野毛のあたりからぶらぶら歩いているうちに、なんとなく狭い路地に入っていってしまった。するとあちこちに女性が立っていてなにやら声をかけてくる。なんだか判らずに話をしてみたところ「遊んで」いかないか、とのこと。

しゃべり方からして日本人ではない、東南アジア系の女性だった。いろいろ言われたがまだ真昼間である。適当に会話しつつ、「写真を撮ってもいい?」と聞いてみたところ、「シャシン、ダメネー」と笑いながら言われた。

のちに知ったことだが、その周辺はいわゆる「チョンの間」が集まる一帯だったらしい。

今思うと、そういうシチューエーションで写真を撮っていいかと尋ねた自分にビックリなのであるが、そのときはぜんぜん臆することがなかったのが不思議である。

さらに散歩を続けるうちにたぶん関内の外れのあたりにたどり着いた。夕方になりフィルムの残りが少なくなっていて、さて、どうしようかな…と思っていたのだが、ふと前を見るとロンゲで上半身裸の兄ちゃんがノシノシと歩いてくる。しかも頭からダラダラと血を流しながら。ロンゲと言ってもチャラチャラした感じではなく、言ってみれば「その筋の人」というかんじだった。

さすがに驚いてしまってシャッターを切るどころではない。夕焼けに染まる町の中、まるで映画のワンシーンのような光景に圧倒されてしまった。

今から10年以上前の出来事である。横浜、横濱、ヨコハマ。いろんな顔を持っている街、町。人々がたくましく生きていて、キレイごとなんて通用しない一帯。当時は2、3日あとになって、あの女性も、あのアンちゃんも白昼夢だったんじゃないかと思えてきた。でもモノクロのフィルムにはその日の散策の記録がはっきり写っている。

たぶんあと10年もするとこうした街の風景もなくなってしまうのかもしれない。

ここまで書いて、さらに思い出した。

たぶん15年ぐらい前、ひょんなことから墨田区は向島のあたりを散歩していたときに、長屋ともアパートともつかない住居が密集する一帯に出くわしたことがある。

木造平屋でともすれば倒れそうな家屋が並んでいたり、家の軒下には鉢植えやら発泡スチロールの箱から伸びる植物が部外者である僕をあざ笑うかのようにその手を広げていたり。

これはもう言葉では言い表せない光景で、当時すでに平成の時代だったのにもかかわらず昭和40年代のたたずまいを濃厚に発していた。

このときはまだカメラに目覚める前だったので、ただただ圧倒されるばかりだったが、たとえカメラを持っていたとしても、果たしてこの光景を撮影することができただろうか。そこには安易な「一見さん」お断りというか、興味本位でシャッターを切ることがそこに住む人たちの濃密な日常感を乱してしまうような、そんな気配が漂っていた。

数ヶ月前に向島近辺に折りたたみ自転車を持って出かけた際にふと思い出しそのあたりと思しき一帯を走ってみたのだが、あの光景に出くわすことはなかった。思えばあれから15年近くが経っているわけであり、昭和40年代の光景も時代の流れに押し流されていってしまったのだろう。

ここで「もったいない」なんて思ってしまうことが傲慢なことであり、僕らのような「通過者」にとっては懐かしい昭和の風景も、そこに生きる「生活者」にとってはさっさと家を建て替えて少しでも快適な生活を送るほうが何倍もすばらしいことなのである。

「昭和」の風景が大好きな僕としては、なるべくそうしたものを記憶のなかに、そして写真としても残しておきたいと思う。

でもそれ自体が果たして「残される」ほうからからすればいいことなのだろうか? 鉄筋のマンションに住みながら木造平屋を撮影することが、傲慢な趣味と言えなくはないのだろうか?

たぶんこの問題は被写体と撮影者の関係性というレベルにおいて「写真論」にもなってくるように思うのだが、細かいことをグタグタ言わずに撮りたいものを撮る! というスタンスになるためには何が必要で、また何を捨てていかなかければならないんだろうか?

なんだか難しくなっちゃったけど、街を散策すること、そしてそこで出会った光景を記録することには、なんともいえない魅力と魔力があるってことを言いたかったんだよな、たぶん。

 

 

 

2013/02/05 / Rocketman3

映画「ザ・ライト・スタッフ」 – 空に、宇宙に「穴」を開けた男たちのドラマ

観るのは3回目だ。前2回は「うう、いいんだけど、なにかこう、決定打に欠けるというか……」というモヤモヤした印象だった。どなたかがamazonレビューに書いていたが、たしかに3時間超の長丁場のなか「ここぞ!」というような映画的盛り上げにはやや欠けるだろう。なのでこういう宇宙開発ものにそれほど興味がない人にとっては、「あれ?」というようなことになるかもしれない。

しかし今回は三度目の正直、おまけに僕自身が宇宙開発ものにすっかりハマっているわけで、もう感動した、涙が出た。たとえそれが、ちょっと酔っていたにしても。

(以下、映画の細部について触れる箇所がありますので、未見の方はご注意ください)

 

「世界で最高のパイロットは誰だい?」
「フフフ」
「なあ、最高のパイロットは?」
「……」
『目の前にいるさ!』

 

ネバダ砂漠のど真ん中にある空軍基地へとクルマを走らせる中での、ゴードン・“ホットドッグ”クーパーと奥さんのお決まりのやりとりだ(このあと、もう一度このやりとりが出てくる)。

そして映画の後半、ジョンソン副大統領主催のヒューストン歓迎パーティーで記者たちに「最高のパイロットは?」と聞かれたクーパー。すかさず奥さんをチラリ、奥さんもニコリ。

このやりとりが(すでに伏線として)なされているので当然それが出ると思った。だが、ふと遠くを見つめるような目で「たくさん知っている」と、パンチョの店の壁にかかった名もなきパイロットたちのことを語り出すクーパー。

「その中でももっとも最高のパイロットは」とイェーガーのことを語る。宇宙飛行士としてはまだ飛んでない彼からすれば、常に危険と隣り合わせになりながら自分の信ずる道を進み続けるイェーガーはやはり特別な存在だったのかもしれない。

 

だがその語りは記者たちが望む答えではない。別の記者の質問でふと我に返った彼は「目の前にいるさ!」とお決まりの文句で笑ってみせる。その満面の笑みから、イェーガーによる最高高度への挑戦へとシーンは繋がっていく。

マーキュリー計画最後の宇宙飛行士として、これから飛び立とうとしているクーパーが語っているにもかかわらず、記者たち(=マスコミ → 世間)にとっては、そんな高高度記録に挑戦し続けるイェーガーのことなどはどうでもいい、時代遅れなことであるという状況において、それでもひとり挑戦するイェーガーのシーンに繋がっていくところが、この映画の数ある名シーンの中ではやっぱり最高だ。

 

そして時代はマーキュリー計画からジェミニ計画へと進んでいく。ジェミニ計画は衛星軌道に複数の人間を送り込み無事回収することが目的となっており、衛星軌道に人間がいることはすでに前提となっている。

この映画で描かれているのはその「前提」に向け、まさに人類が「空に穴を開けて」(イェーガーの奥さんのセリフ)、地球の重力を振り切り未知の宇宙空間へと船出する過程である。それはイェーガーの音速への挑戦から始まり、彼の高高度への挑戦と失敗、クーパーの衛星軌道への打ち上げで幕を閉じる(「Go! Hotdog Go!!」)。その意味でもこの映画の主役はイェーガーとクーパーであると思うのだ。

 

ジェフ・ゴールドブラムともうひとりの凸凹コンビが宇宙飛行士をスカウトしにパンチョの店にやって来たとき(スーツの上着を間違えるギャグは最高)、イェーガーともうひとり、初のマッハ2を超えたパイロットであるスコットは「ただのカプセルに詰め込まれて打ち上げられるなんて御免だね」と言って誘いを断ってしまう。だが実際には大学を出ていないイェーガーはそもそも選考対象には入っていなかったというのはなんとも皮肉だ。

彼ら空軍パイロットたちはマーキュリー計画に対して常に皮肉交じりに話している。着水に失敗したグリソムを「あれじゃあチンパンジーと同じだ」と言って冷笑したとき、ひとりイェーガーは「危険があることを知ってて乗り込むのはサルとは違う。グリソムはよくやったよ……」と彼を擁護する。何気にいいシーンだ。

 

F-104での挑戦を最後に予算はヒューストン(=宇宙開発)へ回されることになってしまう。ソビエトが持つ最高度記録に挑み、星の姿を垣間見るも墜落してしまうイェーガー。ジェット機で星に届きそうになるももはや飛行機の時代ではなく、人類は「いかに早く飛ぶか」から「いかに(地球から)遠くへ行くか」に移ってしまったところで、挑戦に失敗して墜落するというのはちょっと象徴的だ。

いろんな方のブログやヤフー掲示板のトピを見ると、やはりみなさんこのイェーガーの最後の挑戦~墜落~黒焦げになりながらの生還、を一番のシーンとして推している。それはもう確かにそのとおりで、映画のシーンとしてのクライマックスはまさにそこだ。

 

でも僕にとっては、記者たちからの質問に答えるクーパーの言葉のひとつひとつ、本人も我知らず口をついて話しているようなその言葉が一番胸に響いた。

パンチョの店に写真が飾られているのは、音速の壁を超えようとして事故死をしたパイロットたちだ。それに対してライトスタッフは全米から集められた「正しい資質」を持つ、宇宙開発時代の7人の英雄たち。でもその背後には数多くの、アメリカ国民に名前を知られることなどなく散っていった、数多くのパイロットたちがいる。

最後のライトスタッフであるクーパーが、そうした名もなきパイロットたちのことを我も忘れて語る。ここに、そのクーパーのどこか遠くを見るような瞳の光に、これまで積み重ねられてきたさまざまなシーンで描かれた時間の積み重ねがすべて映っているような気がして、思わず涙が出た。

クーパーを演じたデニス・クエイドの、口角を上げるニッコリとした笑顔が全編を通してなんとも印象的。

 

もうひとつ、お決まりのやりとりがある。

イェーガーがテスト飛行にチャレンジする前にいつも同僚のリドリーと交わす会話。

 

「なあ、ガム持ってるか?」
「ああ、一枚ならあるぜ」
「くれよ、あとで返すからさ」
「いいとも」

 

いかにもアメリカっぽくていい。あとで返す、つまり無事に戻ってくるという願掛けなのだ。実際にあったエピソードなのかな? と思ったが、ウィキペディア を見るとどうやらそうらしい。なんともイカしてるじゃないか。リドリーからもらったガムをくちゃくちゃ噛みながら、テスト機に乗り込むイェーガー=サム・シェパード。そうだ、「天国の日々」だ。いい役者だよなあ。

 

もちろん映画では、ジム・グレンやアラン・シェパード、ガス・グリソムなど他のライトスタッフ、そしてその妻たちにも焦点をあてて様々なエピソードを描いている。女優たちに注目して観ると、宇宙飛行士の妻という、もうひとつのドラマが浮き上がってくるだろう。

でも僕にとっては、星に手が届きかけるも墜落するイェーガーと、単独での衛星軌道周回記録を樹立したクーパー。いつもクールなまなざしのサム・シェパードと、いつも満面の笑みをたたえたデニス・クエイド。お決まりのやりとりを粋にキメる、そんな男たちを描いた素晴らしい映画となった。

 

 

 

2013/01/31 / Rocketman3

短篇小説における、個人的な醍醐味について

 短篇小説の名手として(一部では)有名な作家、レイモンド・カーヴァーに「ダンスしないか?」という作品がある。

 カーヴァーで初めて読んだ作品だったと思う。当時、村上春樹にそれはもうハマっていて(笑)、彼自身のエッセイや、他者による作品評論などでも何度か取り上げられていて興味をそそられ、文庫本「ぼくが電話をかけている場所」を手に入れて読んだ。

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 一番最初にあった短篇が「ダンスしないか?」。なんともいえない「突然終わってしまう感」に驚かされた。ここまでプツリと終わってしまう小説は初めてだったかもしれない。ちょっとびっくりして思わずポカンとしてしまった。でもその放り投げるような終わり方の奥に、誰かに伝えたいのにどうしても伝わらないものがある、そしてそれをいつのまにかあきらめ、やがて忘れてしまうこともあるのだという、何とも言えないさびしいような、やるせないような読後感が、岸に寄せる静かなさざ波のようにそこにあった。

 その波紋を感じた時に、自分でもなぜだかまったくわからないが、まるで自分ごと放り投げられたかのように、とても強烈に惹きつけられてしまった。当時、村上春樹の小説を評するものの多くに「喪失感」という言葉が使われていたが、この短篇を読んで「ああ、こういうことなのか……」と腑に落ちた記憶がある。

 そこから「大聖堂」「ささやかだけれど、役に立つこと」と他の短篇集も読んだのだったかな。でも最初に読んだこの短篇がなんといっても圧倒的に印象的だった。

 そうこうするうちに、自分はこうした「ふっと始まって、ふっと終わってしまうような短編」が好きなのだ、と気がついた。映画に例えるなら、2時間できちんと起承転結があって伏線が回収されてオチがきれいにまとまる、といったようなストーリーではなく、

(ロードムービーなどによくあるが、)短いエピソードが積み重ねられ、なにかを伝えようとしてるんだけど、それがいきなりふっと終わってしまうような。

シーンの切り替えで「もしやここで終わりか? あ、まだ続きがあった……」みたいにどこで終わってしまってもいいような。

でもその終わり方が絶妙だと、何とも言えない余韻に浸ることができるような。

そうした、映画全体というよりも、ある部分を切り取ってポンと差し出されるプロモーションビデオのような。

 やがて片岡義男の作品に出会い、とくにその短篇において、自分のこの傾向はよりはっきりとしたものになった。ページをめくるとそこには数行しかなく「あ、終わっちゃった……」と思わされるような作品。でもそこにはなんともいえない余韻がすっきりとした空気の中にふっと消えていくような心地よさがある。(もちろんすべての作品が、とは言わないが)

 こうした感覚については長篇である保坂和志「プレーンソング」でも強く感じたし、最近読んだなかでは堀江敏幸の短篇集「雪沼とその周辺」「未見坂」がとくに素晴らしく、ひとつの短篇を読み終えるたびに、はっとして息をひそめ、それから「ふう」と軽くため息をついてしまうのだった。

 

 

 

2013/01/29 / Rocketman3

焼きたてのパンがもたらしてくれる幸せについて

(mixi日記お蔵だし 2006年09月03日13:04)

 

今テレビを見ていたらパン屋の話題が出ていた。

パン屋というと必ず思い出す小説が2つある。

 

ひとつはレイモンド・カーヴァーの「ささやかだけれど、役に立つこと」。

パンというよりはケーキの話なのだが、これはちょっと哀しいお話。だけれども、この作品の中でケーキというものが非常に重要な役割で出てくる。

 

そしてもうひとつはmixiのオススメ本でも書いている、ウイリアム・サローヤンの「パパ、ユーア、クレイジー」

中古で買った車に乗り込んだ「パパ」と「僕」が明け方にたどり着いた町で、開店前のパン屋の夫婦と交わすやりとりといったら、パン屋に詰め込まれている幸福のすべてがココにあると言っても過言ではないかも。このシーンはこれといって感動するような内容でないのにも関わらず、いつもジーンと来てしまう。

 

そもそも僕の実家はお隣(我が家では隣ではなく「お隣」だった)がパン屋&パン工場だった。だから日曜日の朝なんかは母がお隣から焼きたてのまだ湯気が上がっている食パンを買ってきたりして、今思うとかなりうれしい環境だったのにも関わらず、当時はそういうメリットを全然感じていなかった。

でも、今になって思う。焼きたてのパンって本当に幸せな食べ物のひとつだな。

 

 

 

2013/01/18 / Rocketman3

↑THE HIGH-LOWS↓ / 十四才

あの日の僕のレコードプレーヤーは
少しだけいばって こう言ったんだ
いつでもどんな時でも スイッチを入れろよ
そん時は必ずおまえ 十四才にしてやるぜ

ザ・ブルーハーツの登場は衝撃的だった。見た目はまるでザ・クラッシュのよう。8ビートのパンクロックにのせ、壊れた人形のようにメチャクチャに踊りまくるヒロトが、どこまでも青臭い歌詞をがなりたてる。友人は「『てのひらをたいように』をパンクにしたみたい」と言い、「うまいこというなあ」と感心した。

でもそれでよかったのだ。だってバンド名が「青い心」なんだもの。少年が持つナイーブな心情を多少のセンチメンタリズムとニヒリズムを交えて歌った詞、シンプルで覚えやすいメロディが一大ブームとなるのにそう時間はかからなかったと記憶している。

僕も1stアルバムを聴いて、あきらかにそれまでの日本のバンドとは違うという印象を受けた。とくに「未来は僕等の手の中」「終わらない歌」など、マーシーが書いた曲が印象的だった(「リンダリンダ」は「いかにも」過ぎてあまり好きじゃなかった)。

とはいえ、積極的に聴いたのは1stアルバムだけ。バンドがブームになるにつれ(天邪鬼的に)聴かなくなっていったが、自分がModsカルチャーに入れ込んでいった時期でもあり、自分の音楽趣味と合わなかったというのもあったんだろう(とはいえ、ブレイカーズの存在などはまだ知る由もなかった)。

ザ・ハイロウズの1stアルバム1曲目「グッドバイ」はどこかの店内で流れてきたのを偶然に聴いた。ハイロウズというバンドのことは知らなかったが、声を聴いてすぐにヒロトだとわかった。ブルーハーツの後期はまったく聴いておらず前期の青臭いイメージのままだったので、『サヨナラする ダサいやつらと』という詞を聴いて、「青臭いブルーハーツのイメージにこだわり続けているファンへの決別を歌ってるんだな。そういう曲を1曲目に持ってくるなんて、ちょっとかっこいいな」と思った。

少し遅れてアルバムを聴いた。音もパンクロックではなくて、むしろロックンロールとかハードロックとか、そういう印象を受けた。歌詞も意味があるような、ないような。意味よりもビートに乗った時の心地よさみたいなものを意識しているのかな? と感じた。嫌いではなかったけど、そんなに積極的に聴くというわけでもなかった(なんかそんなのばかりだな)。

そうして数年が経った頃、突然に青い曲が降ってきた。「青春」。いかにもマーシーらしい曲。でも詞は決してブルーハーツ時代の少年のセンチメンタリズムやヒロイズム、ニヒリズムにあふれたものではない。もっと瑞々しい言葉がそこにはあった。

サウンドはバッチリの8ビート・ロックンロールに弾きまくりのキーボードが被る。最高じゃないか。自分の中でもロックンロールがとても大きな存在になってきていた時期だったのもよかった。くり返し何度も聴き、歌詞をトラベラーズノートに貼った。今聴いても言葉のひとつひとつが光って見える。そこからハイロウズの曲をいろいろと聴いた。やっぱりブルーハーツじゃないんだな、こっちのほうが全然カッコイイじゃないか。

この「十四才」という曲は最近になって知った(ハイロウズの曲の中ではそれほど有名じゃないらしい)。歌い出しの詞が先日観た映画「ザ・ライト・スタッフ」と重なってグッと来たが、ちょっとググったら「カモメのジョナサン」から取ったらしく、さらにグッと来た。ここにはもう青臭さなど微塵もない。ロックンロールの快感にのせ、純粋な言葉がある。曲だって最高すぎてもう何度見たかわからないぐらい大好きなThe Whoの「Baba O’Riley」だ。そして最後の(冒頭に挙げた)詞を聴いて、ふいに涙が出た。

十四才だった頃はCDプレーヤーじゃなくてレコードプレーヤーだった。でもロックンロールはまだ聴いておらず、中島みゆきなどのニューミュージックと呼ばれてた音楽が好きだった。それはそれで自分の中に何かを残しているはず。でも、十四才の頃にロックンロールを聴いてたらな、高校生の頃からバンドをやってたらな、と今になって思う。

今では古いレコードプレーヤーも処分してしまい、音楽を聴くのはすっかりCDプレーヤーやiPhoneになってしまった。それでもスイッチを入れてロックンロールが流れてくると、アタマの中で僕が踊り出す。それはきっと現在から過去へと向かう時間の遠近法の彼方にいる、ありえたかもしれないもうひとりの十四才の僕だ。

 

十四才 – Lyric
↑THE HIGH-LOWS↓ – Wikipedia

 

 

2013/01/11 / Rocketman3

モレスキンを使った写真展第2弾「モレ写2」好評開催中

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昨年1月に開催され大好評を博したちょっと変わったグループ写真展「14 TRAVELS by 14 PEOPLE in 14 MOLESKINE」。「旅をテーマに自分なりの表現で制作してください」のお題のもと、蛇腹型のノートブック、モレスキン「プロジェクトプランナー」に各々の「旅」を詰め込むこの写真展、ただいま第2弾が好評開催中です。

 

写真展概要はコチラ
【イベント】旅する写真展α MOLESKINE写真展2|旅屋日誌

 

今回も、写真はもとより、文章、イラスト、マスキングテープや切り紙などをあわせたコラージュ、さらには旅のテーマや全体の構成に至るまで、全部ひっくるめての個性にあふれた作品が目白押しです。

それぞれの作品を見ていると、やっぱりこれは写真の、そして旅の新しい楽しみ方のひとつの形だなあと思わずニコニコしてしまいます。そして「うわ、これ、おもしれー!」と言いながら、ページをめくる手が止まらなくなってしまいます。

 

ではそれぞれの作品を、ほんの一部ずつですがご覧くださいませ。

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他にもありますのでこちらでどうぞ。20130105_モレ写2_スタート, a set on Flickr.

 

前回と今回を通じて改めて感じたのは「旅の写真とその見せ方の変化」ということです。

ここ数年のデジタルカメラやスマートフォンなどの普及は写真を撮るという行為を日常的なものとしました。その結果、旅の最中に撮られる写真はそれまでに多かった記念写真、美しい自然や街並みといった観光的写真だけでなく、旅先で楽しんだ料理や街角で見かけたちょっと変わったものなど、まさに「旅の日々の記録=ログ」にまで広がりました。

さらに写真はこれまで、1枚の作品として見せることを意図したものがメインでした。でもこの展示ではむしろ、何枚もの写真を組み合わせ、1冊にまとめることで「自分が体感した旅のエッセンスを、観る人に楽しんでもらおう」という意図がありありと伝わってきます。

実は僕が撮る写真は「1枚写真として見せる」タイプのものがメインで、写真を切り抜いてコラージュしたり、マスキングテープなどでデコレートしたりするのが大の苦手。なので自分ではできない写真の表現として、みなさんの作品を見るのがなおのこと楽しいのかもしれません。1枚写真を得意とする方、けっこう目からウロコが落ちるかも? ですよ(笑)。

蛇腹形式という一風変わったフォーマットのうえに自由に作り上げられたいくつもの旅。ぜひ会場に足をお運びいただき、作品を実際に手に取ってご覧ください。写真のセレクトや順番、ページ上での配置、コラージュなどのデコレーションに至るまで、作品を制作しているメンバーの頭の中を想像しながらそれぞれの旅を楽しんでいただけたら、とても嬉しいです。

 

(1/31(木)まで、東京・中野の旅屋にて開催)

2013/01/08 / Rocketman3

ブランキー・ジェット・シティ / 海を探す

 

知らない町を歩くのが好きだ。観光地じゃなくていい。むしろなんの変哲もないようなただの町を歩くのが。どんな町にもそこにしかない光景があり、そこに住む人たちの生活がある。それを通りすがりの他者として眺めるのが好きだ。

この映像の町がどこだかは知らない。道路に雪がが少し残っているので冬の薄曇り空の日なのだろう。冬の旅先で、薄曇りの日にあてどもなく歩くのは、それが観光のための旅行だったらちょっと残念かもしれないが、ただ歩くためだったらそれはそれで、切なくも楽しいのではないだろうか。映像を見ていると、自分が実際にそこを歩いた時になにを見てどんな気持ちになるかを、少しだけ想像することができる(ような気がする)。

愛する人の為にすべてを捨てられるとか
そんな言葉はもうイヤだ

荒れ果てた原野で生きる小さな虫の姿に心が揺れる

浅井健一の声はとても特徴的だ。好きかと言われるとどうだろう? と思ってしまうけれど、自分には絶対に出せない声だ。イカ天で最初に観た時は、神経質な声と神経質なギターが耳について、あまり好きなタイプのバンドではないな、と思った。

でもその後デビューして何曲かを耳にしているうちに、アルバムを借りて聴くようになった。やがて、神経質で途切れかけの高音に魅了されるようになった。歌も決して上手くはない。音域が狭く、この曲でも後半は音程が上がりきっていない(他の曲でもそういうことがよくある)。でもそういう上手い下手を超えて、心の深いところに響いてくる魅力がある。そういうヴォーカルだ。

 

 

海を探す – Lyric
BLANKEY JET CITY – Wikipedia

 

 

2012/12/25 / Rocketman3

Toploader / Dancing in The Moonlight

 

星、満月と来たので、今夜は月の光の中で踊ろう。

イギリスはイーストボーン出身のバンド、トップローダーの2000年デビューアルバム「オンカズ・ビッグ・モカ」(全曲試聴できます)に収められた1曲。

チャーミングな音色とメロディのキーボードから始まり、そこにベースがグイッと入ってくるイントロで、もうツカミはオッケー。さらに全体を引っ張っていくキーボードの音色にもうわしづかみにされてしまうわけですよ。ヴォーカルの声もいいし。

途中、曲のブレイクのところでハンドクラップが聴こえる。プロモーションビデオでもそうだけど、パーティーでこんな曲が流れてたらたまらずに手を叩いて踊り出したくなるよね。

当時、かのポール・ウェラー師匠もこのバンドが大のお気に入りだったと何かで読んだ記憶がある。そういうふうに聴くと、ギターやサウンド全体の感じなんかは、師匠直系のOcean Colour Sceneなどにも通じるところがあるかな。

バンド自体は残念ながら2003年に解散。やっぱりバンドを続けていくってのは大変なんだなあ。

ところでこの曲、ずっとトップローダーのオリジナルだとばかり思ってたら、なんと違っててびっくり!

オリジナルはKing Harvestというニューヨークのバンド。72年にリリースされて全米13位のヒットとなったらしい。テンポもやや早くアレンジもわりとあっさりした感じ? 個人的にはトップローダーの方が泥臭くアーシーなアレンジで好きだな。

さらに、大橋トリオによるカバーバージョン。少しジャジーにしっとりと聴かせ、コーラスもきれいでとても良い。これをきっかけにこの音楽家を知り、最近のお気に入りのひとりとなっている。この人もいい声だなあ。

名曲はいろいろな人がカバーしているので、そういうのを聴き比べるのも楽しみのひとつですね。

 

 

Dancing in The Moonlight – Lyric
Toploader – Wikipedia (English)

 

 

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