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2013/01/31 / Rocketman3

短篇小説における、個人的な醍醐味について

 短篇小説の名手として(一部では)有名な作家、レイモンド・カーヴァーに「ダンスしないか?」という作品がある。

 カーヴァーで初めて読んだ作品だったと思う。当時、村上春樹にそれはもうハマっていて(笑)、彼自身のエッセイや、他者による作品評論などでも何度か取り上げられていて興味をそそられ、文庫本「ぼくが電話をかけている場所」を手に入れて読んだ。

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 一番最初にあった短篇が「ダンスしないか?」。なんともいえない「突然終わってしまう感」に驚かされた。ここまでプツリと終わってしまう小説は初めてだったかもしれない。ちょっとびっくりして思わずポカンとしてしまった。でもその放り投げるような終わり方の奥に、誰かに伝えたいのにどうしても伝わらないものがある、そしてそれをいつのまにかあきらめ、やがて忘れてしまうこともあるのだという、何とも言えないさびしいような、やるせないような読後感が、岸に寄せる静かなさざ波のようにそこにあった。

 その波紋を感じた時に、自分でもなぜだかまったくわからないが、まるで自分ごと放り投げられたかのように、とても強烈に惹きつけられてしまった。当時、村上春樹の小説を評するものの多くに「喪失感」という言葉が使われていたが、この短篇を読んで「ああ、こういうことなのか……」と腑に落ちた記憶がある。

 そこから「大聖堂」「ささやかだけれど、役に立つこと」と他の短篇集も読んだのだったかな。でも最初に読んだこの短篇がなんといっても圧倒的に印象的だった。

 そうこうするうちに、自分はこうした「ふっと始まって、ふっと終わってしまうような短編」が好きなのだ、と気がついた。映画に例えるなら、2時間できちんと起承転結があって伏線が回収されてオチがきれいにまとまる、といったようなストーリーではなく、

(ロードムービーなどによくあるが、)短いエピソードが積み重ねられ、なにかを伝えようとしてるんだけど、それがいきなりふっと終わってしまうような。

シーンの切り替えで「もしやここで終わりか? あ、まだ続きがあった……」みたいにどこで終わってしまってもいいような。

でもその終わり方が絶妙だと、何とも言えない余韻に浸ることができるような。

そうした、映画全体というよりも、ある部分を切り取ってポンと差し出されるプロモーションビデオのような。

 やがて片岡義男の作品に出会い、とくにその短篇において、自分のこの傾向はよりはっきりとしたものになった。ページをめくるとそこには数行しかなく「あ、終わっちゃった……」と思わされるような作品。でもそこにはなんともいえない余韻がすっきりとした空気の中にふっと消えていくような心地よさがある。(もちろんすべての作品が、とは言わないが)

 こうした感覚については長篇である保坂和志「プレーンソング」でも強く感じたし、最近読んだなかでは堀江敏幸の短篇集「雪沼とその周辺」「未見坂」がとくに素晴らしく、ひとつの短篇を読み終えるたびに、はっとして息をひそめ、それから「ふう」と軽くため息をついてしまうのだった。

 

 

 

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One Comment

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  1. ペニーレイン / 9月 9 2015 21:05

    うわあ。ほんとうに、私の言いたいことを言って下さいました。ダンスしないか?の、なんともいえない読後感を、ほんとうに十分に表現して下さっています。ありがとうございました

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