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2005/07/06 / Rocketman3

保坂和志 「プレーンソング」

うっかり動作を中断してしまったその瞬間の子猫の頭のカラッポがそのまま顔と何よりも真ん丸の瞳に現れてしまい、世界もつられてうっかり時間の流れるのを忘れてしまったようになる…。猫と競馬と、四人の若者のゆっくりと過ぎる奇妙な共同生活。冬の終わりから初夏、そして真夏の、海へ行く日まで。(文庫裏表紙より)

 

★★★★☆
読んでいる最中は「いったいどこに向かっていくんだろう」と思ったが、読後は奇妙に心に残る作品だった。残念ながらきちんとした感想をまとめるには時間も精神的余裕もないので、思ったことをメモ書きとして残しておく。

※ラストシーンなどにも触れているのでこれから読もうと思っている方はご注意ください

 

■読む前は村上春樹的作品を想像していたのだが、読み始めてみると全然違った。

■文体がなんか変。ところどころが話し言葉みたいというかあまりうまくない作文を読んでいるみたいというか。なんともいえない独特の語り口。それと一文が結構長めで、これもとりとめのないおしゃべりのような印象を受ける。

■何かが起きるようで何も起きない。それは206ページからのゴンタのセリフで語られているように、筋とか事件とかは関係なく、ごく当たり前の時間そのものが過ぎていくということ。昔「なんにも起きない」マンガを書きたいと思っていたが、「なんにも起きない」というのはまさにこういうことなのかも。

■ラスト直前、浜辺で出会った男と老犬のエピソードはなんにも起きないストーリーの中で、唯一のヤマ場かも、と思った。それまでと関係ない、そしてちょっとグッと来るエピソードの挿入はなんだか「ライ麦畑」もしくは「赤頭巾ちゃん気をつけて」を思い出させる。とはいえ、このエピソードもストーリー全体からすればほんのさざ波のようなものなのだが。

 

■読後に一番感じたのは村上春樹との相違点のようなもの。作品中にサーファーのためのブックレビューとして村上春樹が挙げられていたので、作者もまったくなにも意識していないわけではないのかもしれない。

ただしサーフィン雑誌の編集長からは「こんなに難しいの読めないってさ」と否定されてしまう。村上作品のなかでサーファーに勧めようと思うものといえば、やはり「風の歌を聴け」になるのではないか。それ以外の作品ではそれほど「海」を感じさせるものはないので(「風の歌」の風とは海風なのであろう。単行本の表紙にも波止場に座っている人物が描かれていたし)。しかしその「風の歌」は「難しい」と否定されてしまっている。

これは「村上春樹ぐらいは大丈夫だろうと思って書いても」、サーファー=「本をまったく読みそうにもない人たち」からすると一見感覚的に過ぎるような「風の歌」でさえ十分に「小説的」仕掛けに満ちているであるということではないだろうか(まあ、加藤典洋の作品論などを読むと実際には十二分に仕掛けに満ち満ちているのだが。またそのあとにすぐ片岡義男のサーフィン小説が取り上げられているのにはちょっと驚いた。村上春樹と片岡義男が続けざまに出てくるなんて、少なくともこれまでで初めて目にした)。

解説で四方田犬彦も書いているように、村上春樹とこの作者の違いはノスタルジアに対する距離のとり方、というか根本的な態度の違いである。「風の歌」は翻訳調の「クールな」文体、「洒落た」レトリックでひと夏の出来事が語られていく。それはそれまでの小説からすれば何かが起きそうで、でも何も起きないひと夏の物語(ともいえないようなもの)だったのかもしれない。しかし村上はその中にノスタルジアやセンチメンタルな感情をうまく散りばめ、ところどころで読者のツボをうまく突いてくる(そして自分も含めた多くの読者がそのツボの突き方に見事にやられてしまう)。

そうした村上的ツボを徹底的に外したのがこの「プレーンソング」という作品なのではないか。ときどき抽象的でわかるようなわからないような例えが出てくる以外、とくに洒落たレトリックが出てくるわけでもない。文体も前述のように「洗練」という言葉とは正反対のよう。

だからタイトルも「風の歌」に対して「プレーンソング」なのではないかと思ったりもしてしまった。そもそもこの作品中で「プレーンソング」とも思えるような歌に関しての描写はない(歌といえばアキラが即興で歌うシーンぐらいだが、これはさすがにタイトルである「プレーンソング」とはかけ離れているだろう)。

「風の歌を聴け」、村上がどこからこのタイトルをつけたのか以前何かで読んだことがあるような気がするのだが憶えていないのでわからないが、「風の歌」というだけでなにやらそこには意味やメッセージ性が込められているようにも思える(あるいはそれは作品に散りばめられたノスタルジアやセンチメンタルな感情のことなのかもしれない)。しかもそれを「聴け」である。犬の漫才師であるDJが一度だけ真剣に自分の気持ちを伝えようとしたように、うまく言葉にはできないなにか(それをメッセージと呼んでもいいのかもしれない)を伝えようとしたように、やはり「風の歌」には村上によって綿密に配置された様々な要素が重層的に読者に語りかけるメッセージがあるように思える。だからそれに反応してしまうとこの作品はものすごい力で読む者を捉え、その胸を締め付ける。

それに対して「プレーンソング」では前述のようにそうした小説っぽいストーリー性や意味性、読者の胸を締め付けるような演出が極力排除されているように思える。『そうして、全然ね、映画とか小説とかでわかりやすくっていうか、だからドラマチックにしちゃってるような話と、全然違う話の中で生きてるっていうか、生きてるっていうのも大げさだから、『いる』っているのがわかってくれればいいって』というゴンタのセリフがそれを端的にあらわしているだろう。

ラストのあまりにもあっさりした締め方もいわゆる小説的盛り上げを避けている。普通の小説なら伊藤さんという人にゴンタのビデオに住所と電話番号をしゃべってもらったというエピソードの後、一呼吸置いて静かに(もしくは感動的に、センチメンタルに、などの演出を伴って)エンディングに持っていくというのが常套手段だと思うが、この作品の場合そのままたかだか4行であっさりと終わってしまう。

 

■正直なところ、最後の男と犬のエピソード、そして村上春樹との相違点について考えたことにかなり引っ張られてはいるが、読んでいる最中はそれほどおもしろかったわけでもなかったものの読後にこれだけ惹きつけられた作品は久しぶりである。別の作品もぜひ読んでみたい。

 

 

(→ コメント@旧ブログへ)

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